2025年10月
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ある研究者の日常、幹細胞との対話
私の朝は、顕微鏡のレンズを覗き込み、シャーレの中で生きる小さな細胞たちに「おはよう」と声をかけることから始まる。彼らは、ある患者さんの血液から作られたiPS細胞だ。私たちのミッションは、この細胞たちを無事に、そして正確に、心臓の筋肉の細胞へと育て上げること。言葉にすれば簡単だが、その道のりは繊細な職人技と、絶え間ない忍耐を要求される。細胞培養室は、宇宙ステーションのように清浄度が管理され、私たちは塵一つ持ち込まないよう、息苦しいクリーンスーツに身を包む。細胞たちの食事である「培養液」の交換は、毎日欠かせない。その日の細胞の顔色を見ながら、栄養のレシピを微調整する。まるで気難しい赤ん坊を育てる親のようだ。ほんの少しの雑菌の混入(コンタミネーション)が、数週間かけて育て上げた努力を全て水泡に帰すこともある。だから、作業の一つひとつに極度の集中力が求められる。培養を始めて数日後、細胞の形が少しずつ変化し始める。顕微鏡の下で、いくつもの細胞が同期して、かすかに拍動を始めた瞬間、研究室に歓声が上がる。それは、命が生まれる瞬間に立ち会うような、感動的な光景だ。しかし、喜んでばかりはいられない。私たちは、できあがった心筋細胞の中に、万が一にもがん化する可能性のある未分化な細胞が残っていないか、何重にも厳しい品質チェックを行う。私たちのシャーレの中の世界は、その先にいる一人の患者さんの未来に直結している。その重い責任を胸に、私たちは今日も、声なき細胞たちのささやきに耳を傾け、彼らが最高の状態で旅立てるよう、対話を続けるのだ。